池田 菊苗   いけだ きくなえ  1864.9.6 京都市 生  1936.5.3 東京都品川区 没
 物理化学者・理博
1885年大学予備門卒、東大理学部化学科入学。1889年学制改革4年間在学し帝国大学理科大学化学科卒。在学中から共立学校(東京開成中学の前身)や卒業後国学院大学・青山学院で英語教授をする。日本物理化学と化学教育の先駆的指導者。1890年東京高師教授を経て1896年東大理科大学助教授。1899〜1901年文部省留学生としてライプチヒ大学のW.オストワルドに師事。1901年帰国、教授となる。同年学位取得。以後依願退職する1923年までの22年間、物理化学担当教授として研究と教育に尽力する。研究業績としては、反応速度測定に膨張計を導入、有名な白金ゾルの酵素的性能の研究(ブレーディッヒ・と共著)を含む物理化学分野の原報を22篇発表。化学的分野では原子・分子を不用とする師オストワルドのエネルギー論を土台とし、中等化学教育界もこの立場で指導していたが、やがて原子・分子の存在が確実となり、化学への導入が決定的になるにつれ池田の教育方針に厳しい批判がでた。1916年理研の創立に伴ない化学部長に招かれ、池田研究室を1932年まで主宰。東大退職翌年の1924年、ドイツに再留学、帰国後は自宅に実験室を設け、終生研究を楽しんだ。かねてから関心のあった応用研究の第一歩として旨味の解明に着手、昆布の本体がグルタミン酸塩である事を究明。これを主成分とする世界初の化学調味料製造法の特許を1909年取得。その後「味の素」と命名、鈴木三郎助と共に商品化に成功、特許権も譲渡している。こtれをきっかけに酵素の分野に研究対象を拡げ多数の門下と研究続けた結果、発明特許は51件に及んだ。1916年学士院会員。1932年日本学術振興会化学部長に就任。晩年は科学行政にも携わった。最初の留学時帰路ロンドンに滞在し、夏目漱石が同宿し、この交遊が後に漱石の「文学論」執筆に大いに寄与したと文学界に知られている。
[著書]:「近世無機化学」(オストワルド原著・池田菊苗補訳 1905)
櫻井錠二との関連
若き教授櫻井錠二に直接師事。1904年原子量基準を酸素にする事を櫻井と連名で提唱[年表2]/「櫻井教授と記念論文」/ 1913年櫻井の後に東京化学会会長
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